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JOURNAL
− ジャーナル −

#15 
倉敷の物語 vol.2

 
  美観地区とその周辺(1978年/写真:倉敷カメラクラブ)  
 
 

 

#ヒストリー #倉敷  

 

   
 
  倉敷の文化  
 

 

 
 

明治時代以降、紡績産業のまちに生まれ変わった倉敷では、倉敷紡績所が国内有数の紡績会社へと成長しました。初代頭取、大原孝四郎の三男として生まれた大原孫三郎は、倉敷紡績および倉敷毛織(現・クラボウ)、倉敷絹織(現・クラレ)、中国合同銀行(中国銀行の前身)、中国水力電気会社(中国電力の前身)の社長を務め、大原財閥を築き上げました。

 また事業で得た富をもとに文化事業・社会事業・福祉事業などに熱心に取り組み、後に大原美術館の礎となるコレクションを集めた洋画家・児島虎次郎への支援や、大原奨農会農業研究所(現・岡山大学資源生物科学研究所)の設立など幅広い事業が展開されるとともに、大原美術館や旧中国銀行倉敷本町出張所をはじめとする多くの洋風建築が建てられ、現代につながる倉敷の文化的な基礎が築かれました。

 
   
     
   
     
大原美術館の外観
岡山出身の建築家、薬師寺主計(かずえ)の設計
 
     
世界にも稀な美術コレクション

城山三郎『わしの眼は十年先が見える−大原孫三郎の生涯−』(飛鳥新社、1994年)には、「昭和七年、満州事変調査のため来日したリットン調査団の一部団員が大原美術館を訪れ、そこにエル・グレコをはじめとする名画の数々が並んでいるのに仰天する。このことから、日本の地方都市クラシキの名が知られるようになり、太平洋戦争下も、世界的な美術品を焼いてはならぬと、倉敷は爆撃目標から外された、といわれる。」と紹介しています。真偽については諸説あるものの、古い街並みが現存しているのは、大原孫三郎の慧眼と世界的名画のお陰かもしれません。

 
美観地区の中に溶け込むように佇む倉敷民藝館
収蔵品も美しくテオリのスタッフも定期的に足を運ぶ


優れた美意識によって継承される民藝と街並み

また大原孫三郎は、名も無き職人の手から生み出された日常雑器に美を見出そうとする民藝運動の良き理解者であり、支援者でした。孫三郎の意志は、長男で倉敷絹織(現・クラレ)の社長であった大原總一郎に受け継がれました。總一郎に招かれて倉敷に居を移し、倉敷民藝館初代館長になったのが外村吉之介です。静岡県で牧師をしていた外村は、民藝運動家であり、織物の研究者でもありました。

外村は美観地区の保護にも貢献しました。倉敷が伝統的建造物群保存地区に指定される以前は、町並みを保存するという意識が現在ほど一般的ではありませんでした。そのような時期に、江戸時代後期の米倉を再生し、町並み保存の先駆となったのが倉敷民藝館です。東京・駒場の日本民藝館に次いで日本で2番目にできた倉敷民藝館は、この地方の典型的な白壁の土蔵作りで、建物自体が民藝品でもあります。
美観地区や周辺にに酒津焼きや、倉敷ガラス、倉敷緞通など倉敷を代表する民芸品を販売する優良なお店が多いのも、生活文化と作り手を大切にするこの精神が関係しているのかもしれません。

 1974年には倉敷紡績の工場を再生整備した倉敷アイビースクエアが開業しました。現在でも町家や土蔵を改装したカフェやレストランが開店するなど、古い建物を時代に合わせて活用する試みが続けられています。

     
 

倉敷の物語、最終回は
美観地区を象徴する建物の1つ、アイビースクエアをご紹介します。

 
     
         
#16 2023.4.12 upload

倉敷の物語vol.3
倉敷アイビースクエア

#ヒストリー #倉敷
 
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